マルチカルチャーに対し、腰が引けるのは当たり前

昨日、はなこのバースデーパーティを行いました。

日本人のお友だちメインでしたが、公園で知り合ったイギリス人夫妻とその子も混ぜて、フェイスペインティングとバルーンアートのパフォーマーも呼んで、少しばかり国際色を散りばめて。

 

さて、日本人以外は当然英語だけを話します。最初は子どもたちは、腰が引けてるんですね。もじもじしながら、

「犬の風船欲しいってなんていうの?」

って親にわざわざ聞きに来たりして。いや、君たち、Can I~?のフレーズぐらい使えるでしょ、(子供によっては)現地校いってるんでしょ、って感じなんですけど。

 

そのうち、パフォーマーが風船を作り始めると、子どもたち大興奮。

「Give me a sword balloon!!!」

「I want a blue and white handle one!!」

って、めっちゃ英語で、大声で叫びまくる(笑)。欲しいものがあれば、言語の壁なんて関係ないんだよね。

 

最初はもじもじしていた、日英の子どもたちも、剣のかたちの風船を手にして戦いごっこ。楽しいものがあれば、言葉の壁なんて関係ないんだよね。この年齢は特に。

 

ただ。在豪数年の子どもでも、ずっともじもじ状態から抜け出せない子だっています。

 

たろうもはなこも、渡豪直後は、日本人以外の人に対しては完全に腰が引けていました。はなこは、東南アジア顔の歯医者さんに怯え、涙目でチェックアップ受けてたりしたし。ましてや、英語で遊ぶ子供たちの輪の中に突撃して、いつの間にか仲良く遊んでいたり、なんてことは想像できなかった。このまま、せまい日本人サークルの中で終わるのかな~…、まあそれもしょうがないか~…、みたいなことを考えさえしました。

 

日本の、比較的単一な社会で育ってきていれば、それがたとえ2歳児であろうと、「見た目が違う人」「言葉が違う人」に対して、腰が引けないわけがないんですね。多くの子どもが、腰が引けて当たり前だと思います。めんどくさいって思うよね。大人だって、勇気も気力もいるもの。

 

throwing them in the deependも一つの手ではあると思います。つまり、現地の学校や子どもの施設にぶち込む。子どものレジリエンスやフレキシビリティというのは、素晴らしいもので、最初はギャン泣きでも、そのうち慣れてニコニコで通うようになる子が多いのも事実。英語も吸収して。

 

でも、転勤先のローカルカルチャーや学校にどうしても馴染めなくて、特に日本人学校が無い場所だと、帰国を余儀なくされるケースもあるとも聞いたことがあります。そんなときは、どうかお互いを責めないでほしいと思ったりします。合わないときは合わない。人間だもの。

 

オーストラリアの小学校は、引っ越し以外の理由での、転校は珍しくありません。所により学区制があるので、空き次第の面はありますが。諸事情で学校に合わない・変えたいと感じるとき、あるいは学校側から「お宅の子どもさんはうちに合わない」と宣告された場合は、転校できます。言葉の壁がなくたって、合わないときは合わないし、ましてや学校側から「別のところがいいんじゃない」って言われるんだから。(※全く別件ですが、はなこの学校を探しているときに、とある学校から、「うちじゃないほうがいいよ」ってハッキリ言われたことあります(笑)。)

 

私は、社会人になって一社目は、多国籍企業でした。言葉の壁もありましたけど、日本人としてガッチガチに育ってきた私には、社風、そこにいる社員の雰囲気がどうしても馴染めなくて、「ここは私の居場所じゃない」っていうストレスで、最後は鬱っぽくなって退職した経験があります。でも、年齢を重ねてやって来たこの豪州は、かつて大嫌いだった海外特有のフレンドリーさ、いい加減さ、何事も大げさな感じが、気持ちがよくてしょうがない。合わないときは合わない。けれど、合うときもくるかもしれない。人間だもの。

 

人生を、「今」というショートタームだけでとらえてあまり悲観的になることはない。それに、ようやく気が付いた(笑)。めっちゃ遅いわ。

 

子どもが多様性を受け入れられるようになるには、親側も多様性についてしっかり考えないといけないよなって思う。そして、「合わない」ことも多様性のうち。親は見てわかるアウトプットで判断しがちですが、こどもの心に海外の景色がどういうものとして残っているかは、誰にもわからない。だったらそれを信じるのが、いいのかなあと思っています。