無理解と折り合う

休職して、「働きたいのに、働けない」状態に陥り(実はビザ上は就労可能なんですけどね。このあたりはいろいろありました)、ここ2年は、本当に悶々としました。なんでかっていうと、その状態に悶々しただけでなく、思いのほか、悶々とする気持ちすら理解されない場面に出くわしたから。これが意外とdiscouragingなパワーがあるように思う。

 

Mellyの悶々の理由はいろいろありますが、そもそも、親元から自立してからは、人の稼いだカネで生活することに慣れていない。こういう言い方をすると、私のパートナーは、「家族の所得だよ」と、非常に嫌がるのですが(逆の立場なら私も同じことを言っただろうと思っていても、なおかつ)。でも、「自分で稼いだお金で、暮らしを立てられる」っていう状態って、アイデンティティと少なからず結びつくと思うんですよね。また、「したいと思ったことは、絶対したい」というのが私のコアにある根源的な衝動で、その状態を維持するには、自分自身に経済力があることは重要であったりします。これがどのくらい贅沢な望みであるとわかっていても。でも、だからって望んじゃいけないってことはないでしょう。誰に迷惑をかけるでなし。

 

と、同時に、パートナーに何かあれば、私が支えになりたいし、そのための力は常に持っておきたいとも、強く思っています。何かあったときに、無力感や、人生に対する絶望を、味わいたくないんだと思う。

※病気やその他、何らかの理由で働けないときは、きっとここまで思いつめない気がします。いま、そうしようと思えば働けるのに、できないからこそ、ジレンマも大きくなる。専業主婦・主夫の方を否定したいのではなく、私はそういう人間です、ということです。

 

この立場になってから、このジレンマをいろんな人に話してきました。そして、そのジレンマを打破するためのプランやアクションについても、話してきました。子どもの学校つながりの保護者、パートナー、元同僚、パートナーの駐在仲間、学生時代からの友だち、オージー友だち、豪州の人材会社の人、豪州移住者、コーチャー、所属する会社の人事部担当者…。

 

痛感したのは、日本を飛び出して豪州に住まっている人、オージーほど「勿体ない!なんとかして働きなよ!」って言ってくれて、背中をバンバン押してくれる。そして、私と文脈が近い人ほど、「我慢の時期だよね」とか「そうはいっても難しいよね…」と同情的だったり慎重だったり。その中でも、ショッキングでサプライジングだったのは、「そんな風に思う必要ある?」とか「そんな風に考えるなんて、余力あるね~」なんて言われたとき。ちょっと待て、なんで私の感じ方がジャッジされないといけない!?「余力あるね」ってどういう意味!?

 

まあ、文脈が近い人ほど、親身になってくれているという考え方もあると思うんですけどね。子どももいるし、慎重になるべきだ、家族のために我慢しなきゃいけない時もあるだろう、というのは全くもってその通りだろうと思います。私は、子どもの背中を一生懸命プッシュして成長をしていく姿を見つめる一方で、自分自身も、自分の舞台から降りたくないタイプであることは間違いない。

 

とにかく思ったのは、自分で思っている以上に、

「その立場にならないと、わからないことがある」

ものなんだっていうこと。

 

どんなに想像力を駆使しても、わからないことはある。しかも、思っているより、たくさん。当事者にしか語れないことはある。

 

日本人は、同じような文脈・文化で生きることが多いし、ましてや同じ会社だと、かなりハイコンテクストな状態になる。そうすると、なんとなく相手の立場や気持ちも理解できてしまうような気がするし、逆に、自分の立場や気持ちも理解されるのではないか、という期待を持ちがちではないのかなあと。そして、考え方のギャップが無いor少ないと思うからこそ、相手をジャッジしたり、自分の考えるほうへ誘導しようとしたりするし、自分も相手の望むようにしむけられないといけないのでは、と思ってしまう気がする。

 

私のジレンマや焦燥について、「そんな風に考える必要はない」とか「そんな風に考えるなんて、余力あるね」なんて言う人は断続的に現れ(笑)、なんども愕然としたけど、そういうことじゃなかったと今なら言える。「いや、それはあなたの価値観でのジャッジでしょう? 私は違う価値観なので、そんなふうに言われる筋合いは、ないんだけど」が正しいレスポンスだったな(笑)。私も今まで多くの人を、自分の物差しでジャッジしてきちゃったなあと、反省するポイントでもあります。なるべくそうしないできたつもりだけど、きっとしてきたはずだ。

 

だから、ダイバーシティが大事なんだと思うんですけどね。同じコンテクストの人間ばかり集めると、違う地平が見えにくいことは間違いない。昔、家電メーカーで白物家電を開発しているときに、男性ばかりが開発チームにいたから、使い手の実際のニーズや使い方が分かってなかった、みたいなテレビ番組を見たことがあるけれど。まさしくそういうことなんですよね。多くの人は多分、自分の半径数メートルのことしか、実感を持って、感じることができない。それは私もそうです。それを乗り越えるには、神経病みそうなほどの共感性と想像力か、高い志がないとできない。かつ、それなりの人数でそれができるか? となると、なかなか難しいだろうなと。だったら、特に仕事場みたいなところは、お互いを思いやりましょう、顧客に対する想像力を持ちましょう、と言い続けるより、物理的にダイバーシティを推進したほうが、手っ取り早い(笑)。

 

また、お互いわかりあうのは土台無理だから、せめてお互いが生きやすい・働きやすい環境を作っていくことで、相互にご機嫌でいられたほうが、頑張れるよね~っていうほうが、健全だという気がしてきました。無数に存在する、相互の「お気持ち」に配慮するというよりは、「社員の能力をいかに引き出すかor使うか」を軸に置けば、そう難しい話でもない気がしています。

昨今の人事関係の記事を見ていると、過剰にコンペティティブを強調するか(競争的成果主義)、かと思えば、過剰に優しい(「お気持ち」優先)ので、日本のカルチャーにフィットして、なおかつ生産性が上がるのって、そのどちらでもないんじゃないかと思っていたりします。

 

と、グダグダ言いましたけど(笑)。

 

人間なんて、どうせお互いに分かり合えないんだから、と思うと、案外、楽になるし、謙虚にもなる。純ジャパ純粋培養・サラリーマン10数年生活の私には、本当の意味ではわかってなかったんです、それが。今日までやっていた仕事を急に手放して、離職はしなくていいけど、横目でキャリアを積むパートナーを見ながら、自分は働くことすらできない(ビザ的にはOKなのに)んだから、それを寂しい・苦しいと感じる気持ちぐらい、ありえそうなものとして理解されるだろう、想像できるだろう、と思った相手ほど、通じなかった(笑)。特に会社に、真の意味でダイバーシティがないと、嫌な思いをします(笑)。その時は、「ああ、they live in a bubble」と思っておいたほうがいい(笑)。思っている以上に、「これが当然」「こう感じて当然」っていう暗黙のジャッジメント・バイアスが、自分にも、社会にもあると思っておいたほうがいい。

 

同じようにキャリア転換を迫られて悶々としている人がいたら、自分の気持ち・感じ方を大切にしてね、っていうことが一番言いたいことかもしれません。反社会的だったり、よっぽど道理に合わない気持ちじゃない限り、あなたのその感じ方は、とても意味があるものだと私は思います。

 

無理解と折り合うのがなぜ大事かというと、理解されないと思うと、気持ちが落ち込むんです。せっかく、これやろう!って思った新しいアイデアも急に色あせて見えたりすることだってある。だって、理解されたいって人間の根源的な欲求だもの。マズローの欲求の四段階目だったっけ? ときには、必要なエールをくれる人だけの声を聴いて、ノイズは無視するという知恵があってもいいと思ったりします。そして、なるべく自分と背景が違う人と話をする。

 

上野千鶴子が、東大に入るメリットは、ディスカレッジを受けにくいことだ、と何かで言っていて、私はそれはとても大事なことだと思ったんですね(Mellyは東大卒ではありませんが(笑))。新しい一歩を踏み出さないといけないとき、必要なのは勇気と、プランと、エンカレッジだと心から思います。